私的寮自治考察をするにあたって

私的寮自治考察をするにあたって

 

 

私的寮自治考察をするにあたって

文責/M2

  1. 断りと私の意図するところ

 まずこれは1人の寮生の拙い文章にすぎず、ここに私が書くことなど過去の偉大な先人がすでに考えた論理や概念の範疇で説明できることが多々あると思うが、それについて私は学が浅くそういった前提について理解できている範囲はあまりないうえで書くことはご容赦いただきたい。それもあって私は決して自分の述べることは正解だとも思わないしありたい姿へと向かう途中の過程にしか過ぎないと思っている。かといって仮に完璧な知性を携えていれば自治の「答え」にありつけるとも思っていない。つまり最後に至る絶対的な結論として「真の自治」なるものが存在するとは思わないから、何も私が語る「自治」像によって他人の「自治」像を排除するつもりはないし、私が「自治」について偉そうに語ることでその「自治」理解は認識が甘く劣っていると頭ごなしに批難する意図もないことは最初に言っておきたい。とはいえ注意したつもりではあるが筆者が思うよりイデオロギーに陥った幻想かもしれない。だが私がこれから述べる寮自治に関する自己認識としては、これは吉田寮にて、私が、たしかに当時ユートピア的幻想を抱いて吉田寮に入りはしたが、自治に多少なりとも携わってきた経験を通して、この場所で実現されてきたこと、そしてまだ実現しえていない種々の問題があり決して理想郷などではないことを知り、しかしそこで現状がダメだからと悲観してすべてを諦めるのでも現に目の前にある権力勾配に従属するのでもなく、各個別の種々の問題はその都度当事者が納得する形で解決しようと公正にあろうと少しずつ一歩一歩歩むその途上に自らは置かれているということを自覚した上で、寮自治に関して思うことを途中ではあるがまとめたものであることには注意されたい。(私がここに書くことは偉そうな言い方かもしれず気に障ったら申し訳ないし、私が特権的立場あるいはマジョリティに属するから、他者の従属や抑圧の上に築かれた「自治」を標榜する虚構の上に立ってさも分かったかのような口ぶりで話すことなど詭弁に過ぎないと言われたら私がここに書くことなど戯言にすぎないから一蹴してほしい。実際従属せずとも抑圧はされ個人の生存戦略において力強い反発をしないことを決断することもあると思うし、そうした状況を同じ場を共有する一個人として力になれていないあるいは権力構造に無自覚であることがあるだろうことに関して私は反省し自らの立ち振る舞いを総括するほかないだろう。)

 よって私の意図としては、自治をしていくうえであくまで私が気付き現在の私がそれをどうった形で理解の範疇に落とし込んで整理可能かを書くことで、自治についての理解を、私もこのパンフを読む人も多少なりとも賛成だと思うにしろ幼稚だと批判するにせよ自治について考える機会を与えることが少なくともできてそれを通して深めることができると思うので、加えて私の中で雲を掴むように何とも名状しがたかった自治に関して思うことが吉田寮で暮らすにつれ最近になってようやくわずかながらも言葉にして語ることができてきたので、そして何よりこのパンフは何を書いてもいいので、こうした文章を載せようと思うに至った。

  1. 寮自治を語るという行為

 ある一個人(ここでは私)が「寮自治」を語るという行為をするにあたり、語る私自身もそうであるし聞く人(主にここで想定されるのは吉田寮や「寮自治」についての解像度がそこまで高くない受験生などの人)も注意しなければならないことがあると私は思うので、人によっては当たり前かもしれないがそれについて触れることからこの文章をはじめたいと思う。何より強調したいのは一個人である「筆者の」立場から語られている(これから語られる)ということである。つまり、それが意味するのは私という色眼鏡がかかった「寮自治」しか語られないし私は語りえないということである。この注意をはっきりさせるために、まずは私が語らんとする「寮自治」が指し示している意味内容をはっきりとさせたいと思う。

 「寮自治」を考える際、その現前性(寮自治を成り立たせるルールや実際の運営実態)だけに着目するのは寮自治の本質[1]をとらえることはできないと考える。もしそうした現前性にだけ着目した場合、寮自治すなわち自治の運営実態は、現実に行われていることは知っているという前提を立てればシステムやそれの実際の働きの面で(誰が語ってもほとんど一致がとれるという意味で)語ることはできるし、それこそこのパンフの最初の方のページで大体語られているだろう。私が言わんとする「寮自治」は現前性それだけではなく、自治という言葉の意味するところである「決断し実行する」という性質[2]、つまり思考と実践の2つの段階から構成されることを考慮し、寮自治は、現実での働きの存在理由・意図する精神やあるいは必ずしも顕現しないそれがまだ至らない部分に関しての思考の領域、つまり自治を行う者の様々な自治に対する存在理解やそれにまつわる意志という要素を含めて捉えなければ、寮自治を本当の意味で理解したり考えたりすることはできないと私は考える。例えば、居心地のよい生活空間を実現するのに邪魔な諸々の障害を取り除こうとする場面[3]を考えてみよう。このとき吉田寮の自治システムに起因する障害はシステムそれ自体だけで考えてもひょっとすると見つけられるかもしれない。しかしシステムに勘案されていなかったりして抜け落ちている要素は寮自治の精神に帰って考えた時などに見つけられるだろう。例えば入寮資格の拡大もそういった文脈で解釈できると思う。かつては日本人男子学部学生しか入寮できなかったが、吉田寮が京大の学生のための福利厚生施設としてどうあるべきかを考えたとき、現在のような入寮資格まで拡大されたのは自然なことに思える。(もちろん拡大する際にはその時の寮生の多大なる苦労と努力があったことは無視してはならない。) つまり、障害や問題は表出する前からそして表出せずとも問題それ自体は存在している。さらに言うとこの時たとえ顕現していてもそれを問題として認識できているかどうかは別の話である。ほぼある一個人あるいはある属性を持つ小集団しか問題として認識されていないということが多々ある。この時多数派がそんな問題は存在しないと思っている、あるいはともすると問題の存在に無自覚であった場合、その問題はないとしていいのか、いいはずがない。よって問題解決や障害解消の側面を持つ寮自治は、その現前性の観点だけでなく、寮自治のルールやシステムの欠陥やそれが内包する潜在・顕在の問題があるから、(自治の理念も含まれるように)問題を認知する主体である寮に関わる人の思考の領域も含めて考えられるべきであろう。つまり自治を行う者の様々な自治に対する存在理解やそれにまつわる意志も含めて寮自治を考えることで、よりはっきりとそして深く寮自治を考えることができると私は考える。

ただそういった「寮自治」を考える、あるいはこうして一人の思考する者として何か語るとき、他者の存在理解やまつわる意志を想像することはできても、人のそれを完全に分かることはないだろう。それは人によって背景や属性、価値判断などが異なるからであり、自治の理念にしたって微妙な差異がそこには存在するだろう。つまり語るという行為はそれ自体が起因する主体の束縛を逃れえないから「寮自治」全体をまるごと語りえることは誰にもできないのである。[4] 私がここでどんなに言葉を尽くそうとどんなに他者への配慮をしても、吉田寮の自治にある意味・意義や現状抱えている問題も含めての寮自治そのものを記述し伝えることは残念ながらできない。[5] だから、私が「寮自治」を語るうえで、場合によっては顕在・潜在の内在する問題が酷く矮小化されて見えていて語られることがあるだろうし、あるいは無自覚的に何も問題がないとすら思ってしまっている可能性が大いにある。私が「寮自治」について語ることはあくまで私の立場から見た一つの「寮自治」像にすぎないし、その「寮自治」像はひどく歪んでいる、あるいは過剰に美化されたものである可能性が必ずあることは、語る私自身も、そして読者も注意しなければならない。

※〆切の都合と私の考えのまとまらなさから以降は吉田寮公式サイトに掲載されるweb版のパンフレットの方で載せたいと思うので、物好きな方は気が向いたら確認して欲しい。本論に入っていないのはタイトルからして察せられるが、webでひとまず完成した「私的寮自治考察」を載せられたらと思う。


[1] 本質という言葉を使うのは観念論的に定められた絶対真理的な寮自治があると想定しているように聞こえるかもしれないしその危険性は排除できないが、ここでは私が考えたい「寮自治」なるものを別の言葉で説明しようとしたときに私の語彙の少ないこともあって意図する近いところである本質という言葉を用いている。よって今後は「寮自治」という形で記号を与えたいと思う。はじめに述べたように絶対真理的な寮自治像を掲げて他人の寮自治の存在理解を否定するつもりはないが、もし否定されているように言動が感じられたら申し訳ない。

[2] これは次の2章冒頭で述べる辞書的な意味である。

[3] 後述する自治の目的とするところを踏まえた問題意識に基づくと、当然の営みであり自治によってなされることの大事な事柄である。

[4] だから吉田寮を表す斉一性を持った絶対的な代表者など存在しないのである。代表者として各場面に存在する寮生は代表される事柄しか言及しないから代表者足りえているに過ぎず、その人の人格や自治にいかに貢献しているかによって、あるいはそれが全体を代表するようなものだと認められることによって、代表者となっているわけではない。(代表される事柄を確かに把握しているという意味では、自治にどれほど貢献しているかは一つの指標にはなりえるかもしれない。) そしてもしも絶対的な代表者が立てられるほど吉田寮が同質化されてしまったらそれは悲しいことである。

[5] だからといって開き直って言い訳にして思索や配慮を著しく欠き、またそういった言動をするのは問題である。