夢の中で約束の時間に遅れないように

夢の中で約束の時間に遅れないように

 

 

夢の中で約束の時間に遅れないように

                   総合人間学部教授 細見和之

 京都大学へ入学おめでとうございます。

 「自由と自治の京都大学」というイメージをもって受験・入学されたかたも多いと思います。けれども、私がこちらに着任して6年のあいだに「自由と自治」は京都大学からつぎつぎと失われてゆきました。そのなかで吉田寮は京都大学のなかの「自由と自治」の数少ない砦であり続けています。だからこそ、いま京都大学の執行部は、多数の寮生を提訴までして、その砦を打ち壊そうとしています。私は教員のひとりとして、この現状をたいへん残念に思っています。

 私自身は1980年に大阪大学に入学した身です。当時大阪大学には、宮山寮と鴻池寮という自治寮がありました。私の在学中に2つの自治寮は解体されてゆきました。私は寮外生でしたが、「寮生と共に闘う会」を作って、その解体に寮生と一緒に抵抗していました。100時間ハンストもしたのですが、宮山寮、鴻池寮の順番に寮は解体されました。宮山寮の玄関に座り込んでいた私たちひとりずつを機動隊員が二人がかりで引きはがし寮の外へと運びだし、空っぽになった寮をクレーン車が文字通り解体してゆきました。その光景を私はいまも忘れることができません。

 そのとき宮山寮に入っていた理学部の学生に水戸徹(てつ)がいました。彼は1981年の入学で私より1年後輩でした。彼のお父さんの水戸巌(いわお)さんは物理学者で、徹が受けていた物理学概論の教科書は巌さんが執筆されたものでした。その巌さんはお母さんとともに、宮山寮が解体される現場に来られて、私たちと一緒に反対の声をあげてくださいました。

ところで、徹には共生(ともお)という双子のお兄さんがいて、こちらは京大の理学部の学生で、吉田寮に暮らしていました。一卵性双生児の二人はとてもよく似た顔立ちをしていましたが、弟の徹のほうが若干やんちゃな感じでした。もちろん共生さんも宮山寮支援に来てくれていました。

双子の彼らにはお姉さんがいて、うらやましいぐらい家族は仲がよい印象でした。阪大で自治寮の解体に抵抗していた私は、そんな自分の姿を田舎の両親に示すことなどできませんでしたが、水戸一家の場合は、家族をあげて運動を支援していたのです。

ところが、1986年から87年にかけての冬、あろうことか、巌さん、共生さん、徹の3人が富山県の剣岳で遭難してしまいます。年が明けても3人が下山してこなかったのです。最初に巌さんの遺体が見つかり、続いて共生さん、徹の遺体は5月の連休あたりになってようやく発見されました。

巌さんを中心に山登りが一家のだいじな趣味のひとつだったようで、写真とともに面白いコメントの付された何冊かのアルバムを私は東京の徹の実家で見せていただいたのを覚えています。そして、冬山だとお母さんが参加しにくいのでこれから夏山だけにしようと決めた最後の冬山だった、ともうかがいました。

遭難の時点で共生さんは京大の理学研究科の大学院生、徹も来年には阪大の理学研究科の院生になるつもりだったと聞いていました。めぐりめぐっていま私が京大に勤務して、吉田寮の募集パンフにこんな文章を書いているのも、不思議な縁としか言いようがありません。

私は学生時代から詩を書いてきましたが、10年前からは自分の詩に曲を付けはじめました。それで一昨年のコロナ禍がはじまるぎりぎりのところで、吉田寮で私にとってはじめての厨房ライブを行うことができました。遭難した徹のことを念頭において書いていた短い詩の一節にも曲を付けていて、ライブでは最後のほうでそれを演奏しました。

夢の中で約束の時間に遅れないように

今夜は腕時計をつけたまま眠りましょう

遠くにあなたを見分けることができるように

きょうは眼鏡も外さずに眠りましょう

たとえあなたが血まみれであっても

しっかりと両腕に抱けるように

勇気も確かめて眠りましょう

コロナ禍が終わって、厨房ライブで出会えますように。