団体交渉について

団体交渉について

 

 

団体交渉について

藤原辰史

私は臆病な人間であった。大きなものには巻かれたくなるし、小さな事件には目をつぶろうとしたくなる。いや、たとえ大きな事件であって、それに自分が関係ありそうでも、なんとか目をそらそうとする傾向もあった。

そして、面倒くさがりの人間でもあった。すでに政府や企業が公的に説明したことをわざわざひっくり返すことが面倒に思える。何かに怒っている人から意見を聞こうと思ったこともないし、複雑な現象を一つ一つ紐解いていくよりは、誰かの説明を読んでスッキリしたいと思う気持ちが強かった。

そんな凡俗な大学一年生として、阪神淡路大震災の年に、私は京都大学に入学した。学生ボランティアが活発化したにもかかわらず、基本的に臆病で億劫な私の性質は変わらなかった。

ところが大学生活を送る過程で、ちょっとだけ勇気を持って、ちょっと面倒なことでも始めようと思うことが何度かあったように思う。特に、大学三年生のとき、N H Kの「映像の20世紀」というドキュメンタリーを観たのは大きかった。ナチズムのような巨悪を生み出したのは、心の底から悪に染まった人間ではなく、私のような臆病で面倒くさがりの平凡な人間たちがヒトラーやムッソリーニを支持したからだった。不正義だとわかっているのに、正しくないと誰が見ても明らかなのに、みんなが支持しているから、みんなが悪だとみなしているから、ナチスに逆らうと暴力を振るわれるから、という理由で、力のない人間を無限に殺し続ける現象を止めることができなかった。そして、私がいまナチズムの研究をしているのも、そんな自分の不甲斐なさと向き合いたい、という思いもあったのだと思う。とはいえ、いまも臆病で面倒くさがりの性質は消えることなく、私の基本的な性質であることに変わりはない。

そんな凡俗な私でさえ、京都大学の執行部の(その多くが教員なのだが)吉田寮への対応については、黙っていることができない。詳細はすでに寮生や他の教員が書いているので、私は一点、しかも、この問題と始まりの一点に集中したい。

大学側の一方的な団体交渉の拒絶である。2017年12月19日に京都大学によって公表された「吉田寮生の安全確保についての指針」は、吉田寮の老朽化による安全性の確保の難しさを理由に、2018年1月以降の入寮募集の中止を要請し、同年9月までに吉田寮に入舎している学生すべてに、代替宿舎を用意した上で退寮を求めるものだ。何が問題かというと、大学がそれまで吉田寮自治会と取り交わしてきた一連の約束である「確約書」を無視し、従来の交渉形式である団体交渉を拒否したことである。

団体交渉とは、全ての関係者が参加可能な集団的な交渉のことである。現在でも職場で孤立しがちな労働者が団体で会社と交渉に望むのは、その力関係の圧倒的な不平等性によって不利にならないためである。吉田寮問題の場合も、大学執行部(教員がほとんど)と学生では、力関係は非対称的であり、そのためにも公開の団体交渉をする伝統があった。教員は学生を指導する側であって、その逆ではない。教員は単位を認定する側であって、その逆ではない。教員は学生を退学させる権力を持っているのに対して、その逆はない。学生は教員をリコールできない。教員は定職についているのに対して、学生には定職がない。教員は機動隊を大学に呼べるが、学生には学生を守ってもらうために機動隊に来てもらうことはできない。だからこそ、団体交渉が必要なのである。それを、話し合いもなく、一方的に拒絶するのは、自分たちは力を持っていることへの内省のない、反知性的な行為だと言わざるをえない。

吉田寮に住む学生たちが大地震の被害者になることが心配であるならば(もちろん私も心配である)、しかも、それが急を要するのであれば、どうして団体交渉という最も摩擦の少ない通常のルートを断ってしまったのだろうか。どうして無理にコミュニケーションを遮断し、押し切ろうとするのか。だから、裁判という時間のかかる方法を結局向かってしまったではないか。当時の執行部から聞いたのは、団体交渉が前時代的であるからだ、という理由である。ならば、どうして団体交渉という場所で、団体交渉が前時代的だから別の交渉形式について議論したいと言わなかったのか。憲法を改正する場合、その手続きは従来の憲法に乗っ取って行わなくてはならない。今のやり方は、憲法を改正するために、憲法改正のルールを無断で新たに作ってしまうようなそんな無法状態である。学生が執行部を信頼しなくなるのも当然といえよう。

「こちらで決めましたのでご了承ください」。この文句は全体主義の文法である。話し合いとは了承ではない。会議とは肯定の確認の場所ではない。現在、世界中の大学で、教授会の力も意図的に弱体化させられている。文科省や経済界や執行部の決定事項の承認・遂行組織になりつつある。学部自治も大学寮の自治も、全世界的にそのような流れに突入している。理由なく「従え」という人間に誰もが従うような世の中にいることが多くの人間を虐殺することになった現代史を知る以上、たとえ私が臆病でも、属する組織のトップに対してあっても、それもまた権力が非対称的であっても、抗議をしたい。

自治のない大学に、創造など生まれない。どれほど経済的価値を得たくても、こんな不自由でお行儀良すぎる大学では、独創的な価値は生まれない。