京大による先住民族の遺骨略奪問題について

京大による先住民族の遺骨略奪問題について

京大による先住民族の遺骨略奪問題について

文責:つじねこ

 京都大学による先住民族の遺骨略奪の問題について、皆さんご存知ですか。日本が先住民族や朝鮮・台湾などアジア諸国・地域に対して侵略を行う中で、旧帝国大学の研究者たちは「研究」と称してこれら他民族の墓を暴き、遺骨や副葬品を持ち去りました。そうした遺骨の多くが現在も大学の中に保管されており、先住民族からの返還・話し合いの要求が無視され続けている、という問題です。これは決して研究者個人の責任で済まされるものではなく、差別研究を今なお反省できていない大学全体の問題であり、また日本社会の先住民族差別の問題でもあります。現在大学構成員である人にも、またこれから大学に入ろうかと考えている人にも、この問題を知ってもらいたく、本文章を書いています。

  1. 1、遺骨略奪問題とは

 19世紀、明治日本政府は、他民族・地域の侵略と植民地支配を本格化させました。1869年にアイヌなど諸民族が生活していた地域を「北海道」や「樺太」と命名して勝手に日本へ併合し、続いて琉球、台湾、朝鮮半島、中国東北部…と武力によって領土を拡げ、日本人や企業の入植を進めました。植民地では、「日本人は他民族より優秀である」という民族差別のもと、住民に対する殺戮・虐待や強制移住、強制労働、土地や資源の略奪などの暴力がふるわれ、日本への強制同化政策(創氏改名、生業の禁止、言語の禁止等など)が行われました。

 こうした植民地政策と並行して、帝国大学の人類学者や医学者は、遺族や地域コミュニティから同意を得ることなく、植民地とした先々で先住民族のお墓を暴き、遺骨や副葬品を盗み出しました。京都帝国大学では、医学部の清野謙次(きよのけんじ)を中心とする医学者たちが、少なくとも600例近くに上る遺骨が植民地や外国から持ち去ったことを、自身の著書に記しています。これらの遺骨は「アイヌは日本人より劣っているから滅亡するのだ」といった、日本の植民地支配を正当化する他民族蔑視に満ちた研究のために利用されました。

  1. 2、先住民族による遺骨返還要求と京大の対応

 旧宗主国により盗掘され研究標本とされた遺骨の返還を求める運動が、先住民族により長きに渡り取り組まれています。2009年の「先住民族の権利に関する国際連合宣言」では、先住民族の権利の一つとして、奪われた遺骨の返還が明記されました。複数のコタン(地域)のアイヌ民族団体が、裁判を通じて北海道大学等に奪われた遺骨のコタンへの返還・再埋葬を実現してきました。しかし北大も日本政府も今なおきちんとした真相究明や謝罪・賠償を行っていません。そして大半の遺骨は、地域返還を求めるアイヌ民族の意見は無視して、北海道・白老に建てられた「民族共生象徴空間」(ウポポイ)に集約され、現在もなお研究利用されうる状況が続いています。

 京都大学は旧帝大の中でもとりわけひどい姿勢を取っています。2010年代以降、アイヌ民族や琉球民族、奄美人の当事者の方々が何度も繰り返し京大を訪れて、遺骨の返還や、それに向けた話し合いを申し入れてきました。ところが京大は、遠路大学まで来た当事者に対して、責任者は居留守を使い、建物にすら入れずに追い返し、資料開示も遺骨との面会(実見)すらも拒み、申し入れ書には「個別の問い合わせには応じない」「今後この件で京大に来るな」と答えるという、信じがたい対応をしてきました。こうした門前払いの対応を受け、琉球民族の松島泰勝さんらは、琉球民族の遺骨の返還を求めて京大を提訴するにまで至りました。この訴訟の中でも京大は非を認めず、裁判官が勧める和解協議にも全く応じていません。3年以上に渡る京都地裁審は、2022年4月21日に判決が出る予定です。

 京大が一切の対応を拒否する中、2020年以降、京大に遺骨の返還を訴えてきたアイヌ民族の平田幸さんと川村シンリツ・エオリパック・アイヌさん、奄美人の大津幸夫さんが亡くなられました。当事者の話を一つも聞かずに追い返し、祖先を研究標本のままにしたくないという切実な思いを踏みにじり、侮蔑的な対応をとり続けた京大当局、その状況に無関心であり続けた京都大学は、絶対に許されるものではありません。

 京都大学は、遺骨を返還せず研究標本にすることで今に生きるアイヌ民族や琉球民族、奄美人の自己決定権や信仰を現在進行系で侵害し、150年以上続く民族蔑視を体現し続けています。それは、沖縄県民の意思を無視して暴力的に米軍基地を押しつけたり、アイヌ民族の先住権を認めようとしない日本の政策、それらを下支えする日本社会の差別意識や無関心を、大学として後押しすることでもあります。京大の構成員として特権を与えられ、かつ京都に住むマジョリティの「日本人」として先住民族への差別に対して極めて無関心でいられてしまう、私(たち)が何をするのか、問われています。

  1. 3、学問の暴力と吉田寮のあり方

 遺骨盗掘は当時の日本の刑法上でも禁じられていました。にもかかわらずなぜ、研究者たちは植民地で遺骨を盗掘することができ、不問にされてきたのでしょうか。

 第一に、上述のように、現在まで続く和人社会に浸透している民族差別や、植民地において先住民族の自己決定権が根こそぎに奪われていたという構造的差別があります。例えば上記の訴訟の中で京大は、京大の金関丈夫(かなせきたけお)による琉球民族遺骨の収集について、当時の沖縄県庁の許可を得たと主張しています(遺族の許可を得たというわけではありません)。しかしこれは、植民地の警察や官公庁の上層部が軒並み日本人によって占められていたという事実を無視しています。

 そしてもう一つが、大学や学問がもつ権威性です。「帝国大学の教授」による「学術調査のため」という権威のもとで、違法なはずの盗掘が正当化されました。

 研究者が、「研究対象」とみなした他者から、学術研究という権威のもとに情報や文物を収奪し独占し、それを使って自身の功績をつくり、さらに研究者の権威を高める。当事者からの批判は「学問の自由」「真理探求」をタテにして無視する……そのような「伝統」が、現在に至るまで続いています。今、京都大学では、帝国大学創立から125年を祝賀する事業が続々と行われていますが、その「伝統」の中で行ってきた学問の暴力や植民地主義への加担は、一切無視されています。

 吉田寮もまた、そのような大学の一端を担う場所にいます。吉田寮がただ「学生や研究者が好きに勉学に励むことができる」ことを保証する、福利厚生施設であるならば、それは、大学や専門家の特権性・権威性を強め、学問の暴力を重ねていくのを、支える意味しかないと思います。

 その意味で、吉田寮が、寮籍・学籍の有無に関わらず、様々な人が訪れ交流し主体的に活動できる場所を目指してきたこと、現状に対する問題提起を受け変化する可能性に開こうとしてきたことは、大きな意味を持っていると思うのです。